男物・メンズの財布情報〜いい物を身に着けろ〜 
このサイトは、男性のブランド物、主に財布を紹介してます。男ならかっこよく着こなそう、男を着飾る。かっこつけれるサイトに仕上げます。 あなたも、このサイトで、男を挙げよう。(*楽天、ビッダーズと提携してますので,安心してご購入できます。詳細な規約などは、リンク先のお店をご覧ください

ブランド品の紹介

(各リンクをクリックすると、左方に検索があります。そこに
例えば、「プラダ 財布」などと入れてもらえば、商品が出てきます。

ただ品薄のときはでてこないときもあります。)

【特に男に人気の財布】

ポーター
ポーターカジノ
ポーターサバンナ
ポーター スモーキー
ポータータンカー

グッチ

ルイヴィトン

キプリス

エッティンガー

ホワイトハウスコックス

レノマ

エンポリオアルマーニ


【上品に大人っぽく着こなすブランド】

GUCCI(グッチ)

PRADA(プラダ)

シャネル

エミリオプッチ


アルマーニ

ポールスミス

ドルチェ&ガッバーナ

コム デ ギャルソン

KENZO(ケンゾー)

ディオールオム

マルタン・マルジェラ

ディースクエアード

ポール&ジョー

ヘルムート・ラング

ドリス ヴァン ノッテン

アバクロンビー&フィッチ


【街で人気のカジュアルブランド】

BEAMS(ビームス)

UNITED ARROWS(ユナイテッドアローズ)

SHIPS(シップス)

ジャーナルスタンダード

ナンバーナイン

SILAS(サイラス)

X-LARGE(エクストララージ)

STUSSY (ステューシー)

メンズ ラルフローレン

ユニクロ




【高島屋タカシマヤ オンラインショップ

ファッション

ネクタイ




【こちらは、楽天、ビッダーズを比較したブランド紹介ページです(別ページにジャンプ)】

ブランド・ページ



左の並び には各種ブランド名を記載、しております。真ん中には、主に、ルイ・ヴィトンやプラダなどの有名ブランドを,歴史も交えて、紹介しております。



■■■ 財布 ■■■


グッチ・財布
そもそもは、イタリアを代表する高級皮革製品のブランドであるが、今日では、ファション全般においてトレンドを牽引する超人気ブランドの一つとなっている。ブランドとしてのグッチの始まりは、1881年にフィレンツェで生まれたグッチオ・グッチがロンドンの高級ホテルであるサヴォイホテルでの仕事をやめて、1921年に故郷フィレンツェで皮革製品の店を開いたことによる。最初は旅行鞄と馬具を中心とした皮革製品販売に乗り出したが、徐々に事業を拡大し、ハンドバッグや小物の販売も行うようになっていった。グッチはいわゆるブランド商品の元祖でもあり、その製品の品質を保証する為に、グッチオは初めてデザイナーの名前を入れて販売した。

第2次世界大戦の影響で皮が不足すると、グッチは布製のバッグを発表するようになる。1939年にはグッチオの息子たちが事業に参加し、グッチ一族による事業がスタートする。1953年にはニューヨークにショップオープンし世界的に有名なブランドに成長する。

初期のグッチのトレードマークとなる製品が世に出たのもこの頃である。竹製の持ち手のついた有名な「バンブー・バッグ」はたちまち大人気となる。同時期にグッチ社は、創業者グッチオ・グッチのイニシャルをかたどったGGマークがキャンパス地に織り込まれ、赤と緑の帯が縫い付けられた数々のバッグ類や小物も高い人気を呼び、ルイ・ヴィトンのLVマークの製品と並んで、世界で最もコピーされる商品となった。また、1952年には金具のついたモカシンを発表、グレース・ケリーのためにデザインされた花柄の「フローラ・スカーフ」は1967年に登場する。その頃には事業は急速に拡大し、革製品やバッグ類だけでなく、衣服、香水、デキャンターやグラスなどのホームコレクション、アクセサリーなども販売するようになる。グッチの顧客には、オードリーヘップバーンやジャクリーヌケネディなどが名を連ね、グッチ製品を持つことが社会的なステータスと見なされるようになった。

しかし、急成長を続けてきたグッチも、コピー製品に関する法廷闘争や一族内での利害紛争などで疲弊し、1970年代後半から80年代にかけて行き詰まり、一族経営による企業の改革に苦慮する日々が続く。1982年にグッチ社は株式会社となり、その後経営権がグッチオの孫であるマウリッチオに移ると、彼は1987年から89年にかけてその株式の五十%を投資家グループであるインヴェストコープに売却することとなる。1993年には、マウリッチオは経営権を完全にインヴェストコープに譲り渡してしまう。

グッチ社の株式がグッチ一族を離れて、その経営が外に開かれるようになるにつれ、グッチ社の再建も軌道にのりはじめることとなる。1989年にアメリカの高級百貨店バーグドルフ・グッドマンからドーン・メローが副社長兼クリエイティブディレクターとして招かれる。彼女は、2万点にまで広がりすぎた製品ラインを削滅し、60年代のグッチ全盛期の良質な製品5千点にまで絞り込んだ。同時に販売店舗数も削減して、効率よい流通を実現させた。メローは、60年代風のデザインに現代的なテイストを与え、これまでのグッチでは見られなかったようなローズやレモン・イエローなどの明るい色使いの製品を次々と発表していった。メローは卓越したマーケティング能力と、新たな若い顧客へ訴える鋭い感性で、着実にグッチを再生させたのである。

1994年にバーグドルフ・グッドマンに戻ったドーン・メローの後を継いでクリエィティブディレクターに就いたのがトム・フォードである。トム・フォードは、彼はニューヨークとパリの「パーソンズ」で学んだあと、女性服のデザイナーとしてグッチに入る。そしてクリエィティブディレクターに就いた。

企業としてのグッチグループは、90年代に入り急速に事業を拡大させていくことになる。


ルイ・ヴィトン・財布
821年に、フランスのアンシェイという小さな村でルイヴィトン誕生。

14歳でパリへ。修行時代を経て、1854年に「ルイ・ヴィトン社」を設立。

良質トランクで人気がでて、順風満帆になる。

1892年に、創業者、ルイ・ヴィトン死逝。

その後、2代目ジョルジュ・ヴィトン、3代目、ガストン・ルイ・ヴィトンによって、「ルイ・ヴィトン社」は、不動のものになる。

1985年、エピ ラインをきっかけに、タイガ、モノグラムヴェル二、モノグラムミニなどの人気ライン続々登場。

2002年には、日本人アーティスト村上隆氏がルイヴィトンのディレクターとコラボレーションして、「モノグラム・マルチカラー」が誕生。斬新なアイデアとして、高い評価を得ている。

エルメス・財布
1800年代前半
初代ティエリ・エルメスがパリのランパール通りに馬具工房を開いたのが始まり。

2代目のシャルル・エミール・エルメス、3代目のエミール・モーリス・エルメス
がさらに発展させていく。現在5代目まで続いている

1956年、「サック・ア・クロア」を「ケリー」に命名。

1984年、「バーキン」の誕生

1998年、「フールトゥ」、「エールバッグ」の誕生

2004年、レディスウェア部門のマルタン・マルジェラが引退し、後任はジャンポール・ゴルチェが就く。


*エルメスのバッグはすべて一人の職人により、作り上げます。
また、エルメスのバッグには、必ず製造刻印が入っており、ケリーやバーキンなら、クローシェの裏側に製造年・アトリエ名・職人No.が刻印されていて、修理の際は、担当した職人さんの手によりされることになってます。質に重きを置くエルメスならではです。


カルティエ・財布

フランスの高級宝飾品を軸とし、高級時計からハンドバッグ、ライターなどのアクセサリーまでを扱う世界的ブランド。ライターなどのアクセサリーまでを扱う世界的ブランド。

歴史としては、ルイ・フランソア・カルティエが1847年に創設した。折りしもナポレオン3世の第2帝政期で産業が目覚しく発展し、社交界に鮮やかさ、華やかさがあり、夜ごとの夜会で光を放つ時代であった。カルティエのジュエリーは貴族趣味溢れる作風で、まずは富裕なブルジョワ階級に評判となり、皇帝の従妹マチルド侯爵夫人、ナポレオン3世とそのウージェニーらを魅了した。

「宝石商の王であるが故に、王の宝石商」と称えられ、各国の王侯貴族がカルティエのサロンを訪れ、17世紀末頃には、世界中の王室ご用達となる。


ブルガリ・財布

ギリシアの小村の古い銀細工師の一族の子として生を受けたソティリオ・ブルガリは、1884年ローマで宝飾店を創業した。ギリシアとイタリアのローマ、このヨーロッパでもっとも長い歴史を誇る2つの地がブルガリのルーツであり、今日まで続く創造のアイデンティティの核となっている。

一見してブルガリであることがわかるクラシックで同時にモダンなデザインとリッチなボリューム感、この「ブルガリスタイル」は、ソティリオの後を継いだ2人の息子コンスタンティノとジョルジョらが、徐々に確立していった。ギリシアやローマの古典主義、イタリア・ルネサンス、そしてこうした古い時代のジュエリーデザインを再興した19世紀ローマの金銀細工師たちの仕事に触発されて、独自のスタイルが生み出された。ルネサンス以来のカボション・カットを復活させたのもブルガリである。一方、当時主流だったダイヤモンドやルビーなど4大貴石にこだわることなく、アメジストやとるマリンなどナチュラルストーンを積極的に組み合わせて色彩を重視する新しいジュエリーデザインを展開した。新しい素材の導入や色彩を生かした斬新なデザインもブルガリの伝統となっている。1977年には、今でもブルガリで一番人気の腕時計「ブルガリ・ブルガリ」が誕生し、以後、腕時計はジュエリーと並んでブルガリの二本柱となる。
 
90年代以降、香水、スカーフやネクタイ、バッグ類も製品ラインに加わり、眼鏡や食器もライセンス展開している。ジュエリーでも、手ごろな価格設定で若々しいラインが展開されるようになった。「ビー・ゼロワン」シリーズは、モダン感覚のデザインとつける時と場所を選ばない利便性をコンセプトに21世紀に向けて提案された。
 
ブルガリは現在歴史ある高級ジュエリーブランドとしてのステータスを保ちながら、製品の多様化とダイナミックなビジネス展開により、グローバルなトータル・ラグジュアリーブランドへ変身しようとしている。


プラダ・財布
1913年マリオ・プラダとその兄弟が、質の高い革や外国の商品を集めてミラノに設立した店が始まりである。マリオはヨーロッパやアメリカを旅して周り、皮革製品、銀器、クリスタルや貝殻でできたアクセサリーなど、洗練された数々の一流品をミラノの上流階級の間で話題となり、優れた素材の旅行鞄は特に人気を博した。
1957年マリオ他界の後、娘のルイーザ・プラダが店を継ぎ、プラダは革製品を扱う伝統店として続いてゆくものの、時代の変化とともに豪華な品々は人々のライフスタイルにそぐわなくなり、倒産寸前にまで追い詰められていた。

そのプラダに変化の兆しが訪れたのは、1978年にマリオの孫娘のミウッチャ・プラダが夫のパトリッツィオ・ベルテッリとともにファミリー・ビジネスを引き継いでからである。実のところ、ミウッチャはブランド経営に携わるためにデザインを専門に勉強していたわけではなく、みらの大学で政治学の博士号を取得し、一時は学生運動に参加したこともある才媛であった。しかし、78年に三代目としてブランドを引き継いでデザイナーに就任するにあたり、夫のベルテッリとともにブランド再建に力を入れる。老舗の革製品店プラダの名を再び世に知らせることとなったのはやはり鞄であったが、ミウッチャの英断は素材に革ではなくナイロンを使用したことにあった。
この「ポコノ」と呼ばれる工業用のナイロン製防水生地は、もともと祖父マリオがアメリカから輸入して旅行鞄に使用したものだが、ミウッチャはこのナイロン生地を用いてリュックサックなどの軽くてカジュアルな鞄を製作し瞬く間に人気を得る。1920年代、30年代にヨーロッパの一部の貴族の間で起こったプラダ・ブームが、80年代から21世紀に突入した現在にかけてヨーロッパだけでなくアメリカや日本を巻き込み再来。「プラダッシマ」「ベリープラダ」などの言葉が流行語となり、80年代からナイロン・バッグに付けられたプラダの名を冠した三角プレートはブランドのシンボルマークとして広く知られるようになった。初期にはゴールド・チェーンのついたバッグが流行するが、近年ではクロのトートバッグが定番として人気が高い。1983年からはシューズを発表する。
微妙な色合いの革を組み合わせ、ソールやつま先のラインに独特なデザインを施し、シューズの流行も牽引している。そしてついに89年二はレディースのプレポルテ、93年にはもう一つのファーストライン「ミュウミュウ」を発表する。
「過去をあいしているので酔うウイに過去に流されていきやすい」とミウッチャ自身が語っているように、過去のものをデザインソースとしてうまく取り入れていることにプラダのファッションの魅力がある。その時代の最先端のファッションを作り上げてきた豪華な装飾や贅沢な素材を現代から振り返り、行き過ぎた装飾とデザインを取り払い、着心地のよいシンプルな衣服にエッセンスとして付け加えること。プラダのファッションがただのシンプルに陥らないわけがそこにある。日本のある女性誌がプラダやミュウミュウのファッションをかつて「ださかわいい」と評したことがあるが、プラダのファッションはどこか懐かしく可愛らしいという点があり、だれでも手にとることができるようなシンプル
でミニマムなデザインの中に、女性がこれまで追いかけては捨ててきた流行のアイテム、例えば毛皮やや幾何学プリント、ミリタリー調のデザインがより洗練された形で表現されている。ミリタリー・ルックをエレガントなオシャレ着に変え、幾何学模様をコートにあしらい、毛皮にシースルーの素材を組み合わせるなど、プラダのファッションに見られるのは奇抜な前衛性ではなく、現在の流行を生きるファッションの伝統である。だからプラダのファッションは懐古的だが革新的であり、ださいけれどもかっこいい。その両義性が、最先端の流行を身に付けてカッコイイ女になりたいと望みながらも一方でかわいらしいものも捨てがたいという世の欲張りば女性たちの心をつかんで離さないのであろう。プラダのファッションにさりげなく添えられた「可愛らしさ」は、現代社会を生きる女性たちの等身大のおしゃれとして支持されている。
プラダは流行を作り出す最先端のブランドでもあるのである。

一方「ミュウミュウ」のブランド名は、ミウッチャの子供時代の愛称に由来しているように、より若々しくポップでカラフルなライン展開となっている。また95年にはメンズ・ウェアを発表する。レディースと同じように機能的かつ質のよい素材を用いたシンプルなデザインがコレクションの中心であり、奇をてらうことのない上質なスーツはビジネスマンにも人気が高い。98年にはプラダのスポーツラインを発表する。黒やグレーを中心とするカラー展開で赤のラバーロゴをトレードマークとし、合成ゴムや得意のナイロン素材を駆使して都会的なスポーティー・カジュアルを打ち出す。そして1999年にアイウェア2000年には化粧品を発表する。大企業化したブランドが化粧品産業に進出することは珍しくないが、プラダのビューティラインとして発売された基礎化粧品はそのデザインでも注目を浴びている。薬さながらのシンプルかつストイックな形状「透明フィルムの袋から使いきりタイプの容器に入った化粧品がのぞいている」は、広告で化粧品の効能を長々と述べる以上に化粧品の鮮度と機能性を消費者の視覚に十分に訴えていると言えよう。

80年代、90年代と商業的にも飛躍的な発展を遂げたプラダは、近年のデザイナーの世代交代と企業買収によるファッション業界再編の動向にも一石を投じている。ベルテッリはすでに93年には靴のメーカーである「グラネロ」を買収しているが、97年にグッチの株主となったときはファッション業界のみならず世間に大きな衝撃を与えた。プラダグループは、家族経営のイタリア・ブランドから世界的な一大ファッション企業へと目覚しい成長を遂げつつある。

一方で、単なるファッション企業を超えたプラダの活動は常にメディアの注目の的になっている。ピッコロ・テアトルスクールでダンスを習っていた経験を持つミウッチャは、バレイの衣装をこれまで数回手がけてきた。そぢてミラノにプラダ財団を設立し、美術品の収集や定期的に展覧会を運営している。このように常に人々の関心を集めるプラダの優れたプロモーション活動は広告メディアをリードし、ファッション業界そのものの活性化にもつながっているといっても過言でない。


コーチ・財布
「アリ」か「ナシ」かといえば、現在のコーチは、「アリ」である。
例えば、店頭で目に止まったあるバッグの値段が、自分の自由になる金額より、数千円高かったとする。買うか買わないか迷う。そこで、「ナシ」の場合、買わずにあきらめるが、「アリ」の場合、「来週の昼ご飯をお弁当にすれば買える」という計算をする。「アリ」と「ナシ」の差異は、たいていそんなことであり、しかしそれが、とても重要なことでもある。

その「アリ」の世界にコーチはいる。それは、コーチの商品の中にある、「伝統」とバランス良く存在する「流行」が、時どきの空気感に非常にマッチしているからであると思う。

コーチという名前からは、伝統、職人、皮工芸という言葉が持つ匂いと、同じような匂いが漂ってくる。質のよい、シンプルな皮のバックや小物。そして、商品たちの「検印」のように「コーチ」のロゴが押されている。

ニューヨークに本店を持つコーチの歴史は、1941年、マイルズ・カンとその妻リリアンが伝統を重んじた、落ち着きある皮革製品を作ろうと、小物の製造を始めたところに幕を開ける。以後、その商品のラインアップは、様々な皮小物からハンドバッグなど、広がりを見せていくが、一貫して「伝統」を重んじる姿勢は変わらなかった。

しかし一方、近年のコーチは、これまであえて作らなかった布製やビニール製のトートバッグや、モノグラム柄など、「伝統のコーチ」にはなかった、いわば「流行のコーチ」を感じさせる商品が、ヒットを生んでいる。そう、つまりこのヒットこそが、「アリ」のコーチの最も明らかな証明である。

古く、また新しいもある柄。個性的で、しかも多くの人々に好かれる形。捉えがたく扱いがたいこの「流行」というものも、コーチのしっかりとした「伝統」のグラウンドに立つからこそ、絶妙のバランスを保ち、「アリ」のバッグとして、人々の肩を飾るのである。


ディオールの財布
クチュール・メゾン、すなわちブランドとしてのディオールの強さには、3つの理由がある。ひとつは、ムッシュー・モードといってよいほど強烈だったクリスチャン・ディオールの存在。もうひとつは、企業体ディオール社のブランドマネジメントの巧みさ。3つめは、後継者たちの才能である。

クリスチャン・ディオールは、モード現象を社会活動の重要な要素として認識させた20世紀後半最大のクチュリエであった。あらゆるフォルムの実験者として、伝統的なエレガンスの演出者として、またプレタポルテの推進者として、さらにはブランド産業の確立者としても注目である。

クリスチャン・ディオールは、ノルマンディー地方の裕福な家に生まれた。パリ政治学院卒業後、画廊で働きながら帽子デザインを描いていたが、1938年、当時評価の高かったローベル・ピゲのアトリエに入り、1930年代後半の女性的でロマンチックなドレスやスーツを制作した。1941年には、リュシアン・ルロンの店に移り、ピエール・バルマンと腕を競い合った。戦争の後遺症の消えやらぬ1947年、繊維産業の実力経営者マルセル・ブーサックの資金援助を得て、独立デビューした。

クリスチャン・ディオールの活躍した期間は、1947年〜57までのわずか10年間であった。このようにごく短い活動期間であったにもかかわらず、ディオールが第2次世界大戦後最大のクチュリエとよばれるにあたっては、やはり「時代との遭遇」を語らざるを得ない。1947年2月の春夏コレクションで発表した代表作3点を振り返ってみよう。

「ソワレ」は、夜のパーティー用のロープデコルテ。スカート部分は大きな広がりをもつ二段重ねのプリーツフリルでできていた。2点目は、「コロール」(花冠)と呼ばれた黒のウールのアフタヌーン。ボディスは筒型だがバスとの線を描いている。スカート部分にはやはりプリーツが使われていた。このドレスには、ウール地が13,75メートルも使われていたため、物不足を囲っていた当時の人々の間で話題を集めた。もっとも注目を浴びたのが3点目の「バー」と呼ばれるテーラードスーツであった。広い襟のついたシャンタンの上衣、スカートは細やかなプリーツをつけた黒ウールを使用していた。きゅっと絞られたウエストが目を引く。アメリカのモード雑誌「ハーパース・バザー」がニュールックとして紹介したのは、この作品であった。

フォルムのうえだけみるならば、これらの作品には特別新しいところはほとんどない。しかし、ディオールの作品がこれほど新鮮な驚きをもって迎えられたなぞを解く鍵は、やはり「時代との遭遇」ということばにある。ディオールは、まだ戦時色を色濃くのこしていた当時のファッション傾向、すなわち直線的で短く、角張ったスタイル、いわば、男性原理に基づく実用美学を拝して、慎みや優しさ、曲線といった「女性美学」を提示した。もう少し長く歴史の尺度をとってみると、20世紀のモードは世紀のはじめ以来、衣服を脱ジャンダー化する方向で進んできたが、戦後はそうした方向への反動として伝統的な価値観の復活を待望する声が高まっていた。ディオールはまさにそういう時期に登場したのであった。

ディオールが、20世紀モードの代名詞的な存在になったのは、むろんたんなる「時代との遭遇」の結果ではない。ディオール自身が、みずからの生きる時代の行く末を見る才能を持っていたからにほかならない。例えば、コレクションごとにメインテーマとかたちを決めて発表するテーマ主義を採用したこと。ニュールック(1947年)に代表されるような8の字モードからHライン(1954年秋)、Aライン(1955年春)、Aラインの対極にあるYライン(1955年秋)、そして晩年の「サックドレス」まで、テーマ主義はモードを組織化していくのに役立った。また、デビュー後直ちに始めたアメリカ進出の試み(1948年、ニューヨークに現地法人設立)も、ディオールの先見の明を表している。

ディオールの新しいブランド・マネジメントの発端は、香水市場へ積極的に参入したことである。(生前に4製品発売)。クチュリエが香水を販売することはシャネルをはじめ1920年代から盛んに行われてきたが、衣服と香水のドッキングは、両方のブランドの普及を助ける効果を持つ。現在では、ほとんどのクチュリエが香水ばかりでなく、アクセサリーや下着を含め、かつては異業種だった各種のエレガンス産業をクチュリエひとりの名のもとにブランド化する戦略を採用しているが、こうしたブランド・マネジメント(総合ブランド化)の道筋を示したのは、ディオールなのである。ディオールは、デビュー後の1947年10月さっそく香水「ミス ディオール」を発売、翌年には「パルファン クリスチャン ディオール」社を設立した。

その後は、プレタ・アクセサリーを扱う「クリスチャン デイォール ニューヨーク」社を設立(1948年)、毛皮部門設立(1948年)、ライセンス契約の開始(1949年)、「クリスチャン ディオール タイUSA」(ネクタイのライセンス制作)設立(1950年)、ストッキング手袋部門開設(1951年)、贈答品・食器部門の開設(1955年)、ディオール死後も「クリスチャン ディオール メイキャップ」部門の開設(1969年)と取り扱い分野を広げていった。

しかしながら、現在のディオール・メゾンの繁栄は、1984年に当時35歳のベルナール・アルノー(フランス北部の建設部門の家族企業フェリネル社社長)がブーサック財閥を買収した時点にはじまる。ディオールのデビューを助けたマルセル・ブーサックは、ディオール・ブランドとボンマルシェデパートを所有することで戦後フランスの贅沢産業を主導したが、1970年代の世界的な経済危機と産業界再編の波に翻弄されて1978年に破産、アガシュ=ウィロ・グループに買収された。アガシュ=ウィロ・グループは、アメリカの流通大手コーヴェットの買収に失敗して資金難に陥り、1981年公的再建を申請した。当時の社会党政権は、3万名に近い従業員の運命を救うために4億フランの資金援助と管財人を送ってグループ救済を図ったが、1983年、大幅の赤字を出していきずまった。ベルナール・アルノーは当初、ディオール・ブランドだけの買収を余儀なくされた。高リスクの賭けであったが、いまから考えればこの賭けがあたり、その後1988年、「パルファン クリスチャン ディオール」(ディオールの香水部門)を所有していたLVMHとの駆け引きのなかで、結局LVMHグループ全体の経営権をも獲得して、世界最大のブランドグループを作りあげた。

オートクチュール・メゾンは創業者が引退すると、そのまま閉店するのが通例であった。しかし、メゾンが数千ときには万を超える従業員を抱える有力企業ともなれば、創業者の引退後も引き続き経営を維持していかなければ社会的な責任を果たせない。ディオール・メゾンの場合、創業者ディオールの突然死にもかかわらず発展を続けてきた強さの秘密は、ディオール生存中からイブ・サンローランなど優秀な若手デザイナーを抱えてきたことにある。イブ・サンローランはすでに1955・6年秋冬コレクションから一線で活躍していたが、ディオールの死後、主任デザイナーになってからもモスクワ初のオートクチュール・コレクション(1959年)を発表するなど、ディオールに劣らず進取の精神を発揮した。イブ・サンローラン独立後は、マルク・ボアン(1958〜1989)が長い間、主任デザイナーをつとめた。その後はイタリアの鬼才ジャン・フランコ・フィレ(1989〜1996)が伝統と冒険という2つの戦線でモードの世界をリードした。

1997年からはモード界の異端児と呼ばれたジョン・ガリアーノは、遊びの要素をふんだんに取り入れ、大胆さと洗練とのバランスを巧みに使い分ける作品を発表して注目を浴びている。ジョン・ガリアーノの入店以来、プレタポルテの売り上げは400%の上昇、他の分野(とりわけバッグと靴)も含めディオール・ブランドは未會有の成長を実現した、とベルナール・アルノーはジョン・ガリアーノの才能を絶賛している。
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